その旅路、私は何かに出会うことを待っている。 房総半島で写真を撮る。 私はここで写真を撮ることが好きだ。 半島の終わりある道や、歩いては行けない海、佇むモノたちはまるで年輪を重ね待っているように見える。 私は立ち止まる。 私を立ち止まらせたものは何か。 絶対的な存在感でいて、しかし何者でもない何か。 ファインダーを覗き、それが再び現れるのを待つ。 「待つ」は「祀る」の由来という説がある。 シャッターの裏側、フィルムは露光を待ち、潜像が現像を待つ。 ファインダーで見えているモノの向こう側に何かが見えた時、私はシャッターをきる。 それは写らないものが写るという盲信ではない。 写るという事象そのものを体験し信じること。 繰り返し房総半島を廻る。 繰り返し暗室で写真のサークル( 露光、現像、定着) を廻る。 それは私にとって、祀るように儀式めいたサークルである。 その旅路、私が待っているものは何か。 或いは私を待っているものは何か。 例えば、小さな用水路からすくい上げた網に、思わぬ大物が入ってしまった時のバタバタとした魚の重さ。 初めて遠くまで自転車で来てしまった夕暮れに、私を引きつけてやまない戦慄。 無意識の深淵、遠い故郷のような場所と私を繋ぎとめてくれる何か。 そんなものを私は待ち、写真において自己を世界へ統合したい。
-嶋田篤人。
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