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国内外のアートシーンで活躍する卒業生たちを追った連続インタビュー企画。第8回は映像学科卒業生で映画監督の蔦哲一朗氏。製作の原点となった学生時代のエピソードや、作品に込めた思いなどを語ってもらった。

国内外のアートシーンで活躍する卒業生たちを追った連続インタビュー企画。第8回は映像学科卒業生で映画監督の蔦哲一朗氏。製作の原点となった学生時代のエピソードや、作品に込めた思いなどを語ってもらった。

第8回 映画監督

蔦 哲一朗 つた てついちろう

1984年、徳島県生まれ。東京工芸大学在学中に映画製作に魅了され、白黒映画集団「ニコニコフィルム」結成。2007年製作の「夢の島」が第31回ぴあフィルムフェスティバル観客賞を受賞する。2025年には「黒の牛」が第49回香港国際映画祭コンペティション部門で日本映画初の最高賞を受賞。一般社団法人 ニコニコフィルムの代表を務めるほか、駆除された鹿の皮を使ったアパレルブランド「DIYA」も運営している。

フィルムの魔力に魅せられて
偶発性が「豊かな映画」を生む

祖父は「やまびこ打線」を率いた甲子園の名将

徳島県池田町(現在は三好市)生まれで、姓は「蔦」ーー。

高校野球ファン歴の長い方なら、思い出すのは蔦文也監督のことだろう。徳島県立池田高校野球部の監督として1980年代に甲子園で優勝3回、準優勝2回を果たした名将。猛打を誇る「やまびこ打線」を率いた「攻めダルマ」の愛称で知られている。

蔦哲一朗氏は孫にあたる。池田高校に進んだが、野球とは縁がなかった。Jリーグブームに沸く中、自然にサッカーへ進んだのだ。

蔦:小学校から高校まで、ずっとサッカーをやっていました。大学でも一応続けていて、ポジションはフォワード。もうとにかく点を取ることだけ考えてて(笑)。

高校卒業と同時に上京。東京工芸大学の映像学科に進学したのだが、最初から映画監督を目指していたわけではなかった。

蔦:映画はテレビで作品を見ていた程度で、東京に来てようやく初めて黒澤明やチャップリンの作品をちゃんと見た感じです。最初はアニメーション学科に入りたかったんです。ジブリ作品が好きで、監督の高畑勲さんが教えていると聞いていたので。受験したんですけど、落ちてしまい、映像学科に進みました(笑) 。

学生時代の思い出を語る蔦氏。当時を知る大学関係者も「個性的だった」と指摘するほどやんちゃだったようだ
学生時代の思い出を語る蔦氏。当時を知る大学関係者も「個性的だった」と指摘するほどやんちゃだったようだ

井筒監督を唸らせた自主製作のホラー映画

1、2年生の時に過ごしたのは厚木キャンパス(当時)だった。

蔦:自然豊かな中でロケハンして、のびのびと自由に映像を撮っていた思い出がありますね。撮影機材はミニDVのカメラでした。

ところが、講義で16ミリフィルムと出会い、思わず身体が反応したという。

蔦:「これは面白い!」という感覚がビビッと来たんです。そこから全部変わりましたね。

講義の担当は矢島仁准教授。映画の基礎となるフィルムの仕組み、撮影、編集、現像、プリント焼き、ネガ編集といった工程を学んだ。すべてを手作業で行う、原始的な映画製作の現場に、身体ごとのめり込んでいった。やがて講義だけでは物足りなくなり、矢島准教授との「課外講義」も始まったという。

蔦:現像作業では、100フィート(約30メートル)の16ミリフィルムを木のリールに巻き付けて、自分たちで調合した現像液のタンクに漬け込みました。暗室から出て、画が浮かび上がっているフィルムは魔法みたいで、説明できない感動があるんですよ。

そこからどんどんエスカレートして、2年生になる春休みに、同級生8人とニコニコフィルムという映画サークルを立ち上げました。フィルム撮影に特化したサークルです。

その後、自主製作映画を作っていくんですけど、当時は僕もいろいろ未熟なところがいっぱいあって、先生や大学の皆さんに迷惑をかけまして……当時は映画を撮るのが無敵だと思っていた頃で。本当に申し訳なかったですね。

キャンパス内の廃校舎での無断撮影、原付バイクで構内を爆走……今なら怒られて当然の無茶も、すべては映画のためだった。

祖父譲りの「攻めダルマ」が発揮されたのかどうかは定かではないが、この行動が思わぬ賞賛をもたらした。

蔦:学内の映画祭で、審査員をされていた井筒和幸監督が、僕らの作品を見て「大作やな」と言ってくれたのが忘れられない。内容はB級ホラーみたいなものでしたけど、現像も編集も全部自分たちでやってたんで、その熱量が伝わったんだと思います。

この言葉が、映画監督として生きていく決意に変わった瞬間だった。

蔦氏が監督を務めた映画「夢の島(https://pff.jp/jp/collection/island-of-dreams.html)」と「祖谷物語ーおくのひとー(iyamonogatari.jp/)」のパンフレット(©NIKONIKOFILM)
蔦氏が監督を務めた映画「夢の島(https://pff.jp/jp/collection/island-of-dreams.html)」と「祖谷物語ーおくのひとー(iyamonogatari.jp/)」のパンフレット(©NIKONIKOFILM)

「無謀な挑戦」の初長編作品が国内外で高評価

蔦氏は2007年に大学を卒業。その後は名画座の早稲田松竹(東京都新宿区)でアルバイトに励んだ。

蔦:映画館の受付やホームページの作品紹介、映写技師みたいなことなど、何でもやりました。一番楽しかったのは次週上映作品の試写でした。夜中に一人で映画館で作品を全部見るわけです。そこでタルコフスキー監督やアンゲロプロス監督など自分の礎となる名作たちと出会いました。

映像製作の手伝いなども並行して行う一方、フィルムでの自主製作は細々と続けた。仲間と共同で撮影した短編映画や映像表現の実験。小さな活動の積み重ねが、やがて実を結ぶ。

2009年、自主映画「夢の島」が第31回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)で「観客賞」を受賞する。作品自体はサークル「ニコニコフィルム」の卒業製作として2007年に撮影された16ミリフィルムのモノクロ作品だ。

2011年には映画「祖谷物語ーおくのひとー」の撮影を開始する。徳島県三好市の山深い祖谷(いや)を舞台に、全編カラーフィルムで撮影された169分の長編映画で、雄大な自然と過疎化が進む地域社会を背景に、近代と伝統、人と自然の関係性を静かに問う作品。武田梨奈、田中泯、大西信満が出演した。蔦氏にとっては初の35ミリフィルム映画だった。

蔦:20代後半になって、「地元で映画を撮りたい」という思いが強くなってきたんです。そこで挑戦したのが「祖谷物語ーおくのひとー」でした。資金も人もギリギリでしたが、地元の人たちが協力してくれて、「日本の摩訶不思議な田舎」を映画にできた感覚がありましたね。

3年をかけて製作された「祖谷物語ーおくのひとー」は2014年、全国でロードショーされた。国内外での評価も高く、東京国際映画祭「アジアの未来」部門で「スペシャル・メンション」を授与されたほか、トロムソ国際映画祭(ノルウェー)で日本人初となる最高賞「オーロラ賞」など数々の受賞を果たした。

ただ、公式サイトに寄せられた映画関係者のコメントを見ると、やはり蔦氏のフィルム撮影に対する評価が目立つ。映画作家・想田和弘氏はこう評している。

<今どきこんな無謀な挑戦をした蔦哲一朗はスケールのデカい稀代のアホであり、祖谷の深山幽谷のごとき計り知れなさを感じる。彼の世界へ強引に惹き込まれた>

ここまで言わしめるほどのフィルムの魔力とは何なのだろうか。

2026年公開予定の最新作「黒の牛」のワンシーンから(©NIKO NIKO FILM / MOOLIN FILMS / CINEMA INUTILE / CINERIC CREATIVE / FOURIER FILMS)
2026年公開予定の最新作「黒の牛」のワンシーンから(©NIKO NIKO FILM / MOOLIN FILMS / CINEMA INUTILE / CINERIC CREATIVE / FOURIER FILMS)

「フィルムの粒子に霊性が宿る」という感覚

蔦:デジタルだと、「あとから修正できる」と思っちゃいますよね。でもフィルムは、そうはいかない。だからこそ「一発」にかけるんですよ。呼吸やリズム、光の加減、すべてが研ぎ澄まされる感じでしょうか。

フィルムは撮る側の緊張感も違うんです。一本一本の値段が高いから、失敗できない。でも、その緊張感が、映像に乗ると思うんですよ。もちろん、純粋に撮影して現像する一連のプロセスが楽しいという面もありますね。

確かに、デジタルのほうが製作費は圧倒的に安くて効率的です。でも、仕上がった画の深みが違うと思うんです。いや、崇高さって言ったほうが近いかもしれないですね。フィルムの粒子に霊性が宿るというか。

テンプレート化されたAIによる映像もあるように、今は便利な時代です。でも、その「効率性」を求める精神はクリエイティブな精神とはまた別のもの。むしろ効率性によって捨ててしまった無駄や空白の中に何か人間が理解できない芸術の魅力が存在していると思うんです。

2026年公開予定の最新作「黒の牛」は、全編モノクロフィルム、それも日本の長編映画として初めて70ミリのフィルムを使用しているという意欲作だ。牛を飼い慣らす牧童の姿を通して、自己探求と悟りの段階を絵で表した「十牛図」。この禅宗に伝わる絵から着想を得て作品を製作したという。

牛と出会い、大地を耕しながら自然や自己と対話する主人公を演じるのは、台湾の俳優で映画監督のリー・カーション。禅僧を田中泯が演じ、音楽を担当したのが坂本龍一だ。

蔦:「黒い牛」のパイロット版を見た坂本さんが「タル・ベーラ(監督)みたいだね」と気に入ってくれたという話を聞いて、ダメ元でお願いしたんです。私にとっては最高の褒め言葉だったので。

ところが、坂本は2023年3月に逝去する。映画で使用したのは遺作アルバム「12」の楽曲。「12」は坂本が闘病生活中に日記を書くように「音楽をスケッチした」作品群で、日付が曲名になっている。

蔦:坂本さんの楽曲って、説明しない音楽なんですよね。旋律でもなく、リズムでもない。音を楽しむ、存在そのもの。まさにこの映画の雰囲気にぴったりでした。

最新作のタイトルバックとともに
最新作のタイトルバックとともに

大きなスクリーンで「フィルムの魔力」を感じてほしい

音楽だけではない。映画「黒の牛」の主人公には名前がなく、脚本にも「私」とあるだけだ。

だが、そこには明確な意図がある。

蔦:僕がやりたかったのは、「私」という存在を通して、観る人それぞれが「自分自身」と向き合う体験。だから物語性や感情移入は極力排除したかったんです。

脚本にも変更を加えた。シーンによっては、細かく書き込むことをやめ、箇条書きした「思い」を共有し、シーンの意味合いを説明しつつ、現場で柔軟に撮ることを選んだ。ワンカット長回し、自然に任せた光、動物の動き、風の音……偶発性を重視したという。

蔦:映画は「感じるもの」だと思う。だから寄りのカットはあえて少なくしました。むしろ背景に意味がある。木の揺れ、牛の動き、光の反射、全部が物語なんです。

全部決めて撮る映画でも、もちろんいいと思います。でも、僕は「段取りどおりじゃないこと」に価値を感じてしまう。自然の変化、動物の動き、人間の揺らぎ……偶発性こそが「豊かな映画」を生むと思っています。

撮影に5年、編集に2年。「黒の牛」は2025年、第49回香港国際映画祭で日本映画では初となる最優秀賞の「Fire Bird Award」を受賞するという快挙を成し遂げた。

ところが、であるーー。

蔦:正直、カンヌかベネチアには行けると思っていました。悔しいし、ちょっと心折れましたけど、今はこの映画を評価してくれないプログラマーたちもきっと将来わかってくれるだろうと思えるくらいまで自尊心が回復してきてます(笑)。

ここから先はもっと自由に、もっと深く潜っていく映画を撮っていきたい。撮りたい企画はたくさんあります。でも、まずは「黒の牛」をちゃんと届けたい。

「フィルムの魔力」は劇場の大きなスクリーンで体験することに意味があると思っています。あの浮かび上がってくる感覚は、スマートフォンではなかなか伝わらない。ぜひとも劇場で見て感じてほしいですね。

取材・文:佐々木広人
撮影:影山あやの

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