使用されているテンプレートファイル:single-biography.php

国内外のアートシーンで活躍する卒業生たちを追った連続インタビュー企画。 第1回は日本写真家協会(JPS)会長で写真家・熊切大輔氏。現在の活動内容や学生時代の思い出、 写真界の今後に対する思いなどを聞いた。

国内外のアートシーンで活躍する卒業生たちを追った連続インタビュー企画。 第1回は日本写真家協会(JPS)会長で写真家・熊切大輔氏。現在の活動内容や学生時代の思い出、 写真界の今後に対する思いなどを聞いた。

第一回 写真家

熊切大輔

1969年、東京都生まれ。東京工芸大学では写真技術科第5研究室(当時)に在籍。卒業後、日刊ゲンダイ写真部を経てフリーランスの写真家として独立。 ドキュメンタリー、ポートレート、食など「人」をテーマにした撮影ジャンルで活躍。 スナップで街と人を切り撮った写真集・写真展が多い。2023年から公益社団法人日本写真家協会(JPS)会長。

コロナ禍が招いた閉塞感と孤立感
写真の力を連携して臨む「再構築」

「写真界は危ういぞ」の声に背中を押され...

日本を代表するプロ写真家団体である公益社団法人日本写真家協会(JPS)。1950年に写真家・木村伊兵衛らによって設立され、会員1200人を超える組織の会長が写真家の熊切大輔氏(54)だ。JPSで50代の会長が誕生したのは実に63年ぶり。組織が一気に若返った格好だ。

熊切 : JPSに入会してから委員の活動を続けていたところ、退任される野町和嘉前会長から「今までやってきたメンバー(委員)から誰かがやりなさい」という話になりました。 確かにJPSも写真業界も転換期を迎えていますし、変わるには良いタイミングでした。 多くの会員のみなさんから「今変えないと写真界は危ういぞ」と背中を押されてまして。 やれるうちに、やれるタイミングで。熟慮した結果の決断です。

相次ぐカメラ・写真誌の休刊、生成AIの隆盛、写真機材・機器の高騰……写真を取り巻く環境は決して芳しいものではない。

熊切氏がとりわけ意識しているのが、スナップ撮影に関する「逆風」だ。市民の肖像権意識の高まりに加え、2023年6月には盗撮行為を規制する性的姿態撮影等処罰法が施行。この時、メディアで躍ったのが「撮影罪」という名称だった。「この名称がストリートスナップの萎縮を増長するという危機感があった」という。

そこでJPSは同年10月、「撮影罪という言葉を使わないでほしい」と声明を発表し、熊切氏自身もX(旧Twitter)で積極的に投稿。<撮影は罪ではありません。「撮影罪」という安易な略称の使用が写真を生業にする人、写真愛好家の皆さんに嫌な影を落としています>というメッセージは、実に約9万6000回表示された。

熊切 : 撮影罪の名称に関しては本来、法案の議論の段階で声明を準備すべきだったので、「出すのが遅い」という批判があるのはおっしゃるとおりだと思います。 ただ、これまでのJPSはそういう事態に対してあまり発信してこなかった。世代が変わるのであれば、みんなに関わりのある撮影罪と生成AIの問題から手をつけねばならない。 大切なことはタイミングが遅くても伝えなくてはなりません。

熊切氏自身も街でスナップ写真を撮り続けている当事者である。都会に生きる人、建物、時には「忘れ去られたもの」に目を向け、時にはコミカルに、時には批評的な眼差しで「瞬間」を切り取る写真家なのだ。

写真展「東京動物園」からの1枚。作り物の動物たちの”生態”をコミカルに、時にシニカルに切り撮っている(写真提供:熊切大輔氏)
写真展「東京動物園」からの1枚。作り物の動物たちの”生態”をコミカルに、時にシニカルに切り撮っている(写真提供:熊切大輔氏)

写真は「撮るもの」というより「見るもの」

父は2代前のJPS会長を務めた写真家・熊切圭介氏。当然ながら写真との出会いは「物心ついた時から」だった。

熊切 : 幼稚園児の頃から父の撮影モデルをしていました。覚えているのは週刊誌の社会風刺的なグラビアページ。 バス停の待合客にロンドンブーツを履いた女性がいて、黄色い帽子を被った幼稚園児がそのブーツを蹴るーーという作り写真でその幼稚園児を演じろと(笑)。

カメラは父の仕事道具として認識していた程度ですね。ただ、自宅に「アサヒグラフ」や「LIFE」といったグラフ誌や写真集がたくさんあったので、見る機会はとても多かった。カメラを触ったのは中学の修学旅行で使うために、父からコンパクトカメラを渡された時。「どうやったら面白く撮れるかな」とは考えましたけど、その後も趣味としてカメラを常に持つことはなかったです。

そんな熊切氏が写真の道を志した理由は何だったのか。

時は数々のアート集団が活躍した1980年代。熊切家に起きた出来事が人生の歯車を回し始めた。

熊切 : 僕が高校生の時、父の知り合いの建築デザイナーが僕の部屋をデザインすることになり、「俺の好きなようにさせたら無料で部屋を作ってやる」と言い出したんです。 出来上がったのは壁から棚まですべて黄色の部屋。尖りすぎていて「何だこれは!」と思ったんですけど、だんだん刺激を受けてきて、しまいには空間デザインが好きになった。 専門学校に行って空間デザインを学ぼうと思ったんです。その後、進路指導の先生から「社会でなかなか成功しない。大変だぞ」と言われまして。 そこから仕事とは何なのかと考えるようになり、一番身近な職業として写真に行きついたんですね。

学生時代の課題「アンバランスな風景」より(写真提供:熊切大輔氏)
学生時代の課題「アンバランスな風景」より(写真提供:熊切大輔氏)

めでたく大学に入学した熊切氏だったが、写真学科は実家が写真館の学生も多く、撮影の技術が確かな者ばかり。技術的にはかなり遅れをとっていたという。

熊切 :全然違う世界に入っちゃった、という感じです(笑)。所属は芸術写真の第5研究室。 ただ、自分は何をすればいいのかわからなくなり、大学に行かなくなった時期がありました。

それでも大学での指導は「自分の基礎になった」という。

熊切 : たとえば「アンバランスな風景」を撮るという課題では、道端に廃棄されたテレビを道路の真ん中に置いて撮影して作品を提出したこともあります。 これが思いのほか、先生に褒められたんです。人間って単純ですよね。褒められると自己肯定感が上がるじゃないですか。 その一言は先生から見れば大したことのない言葉かもしれませんが、心のスイッチが入りましたよね。 ただ、総じて成績は悪く、大学でも怒られっぱなし。模範的な学生とは真逆の存在でしたね。

むしろ生活の中心はキャンパスの外にあったそうで……。

熊切 : カフェバーでひたすらアルバイトをしていました。どっぷりはまって、撮影より調理の腕がどんどん上がっていくという(笑)。 小さい店だったので、厨房も接客も担当しました。店長には接客の基本や対人関係を徹底的に叩き込まれました。あと、店で様々な人たちと出会って交流が増えましたね。 異業種の人たちと交流を持ったことは、その後の人生を考えても財産になりました。

写真展「刹那 東京で」からの1枚。加速度をつけて変わりゆく東京のリアルを描いている(写真提供:熊切大輔氏)
写真展「刹那 東京で」からの1枚。加速度をつけて変わりゆく東京のリアルを描いている(写真提供:熊切大輔氏)

「画になりにくい」からこそ面白い

大学卒業後は夕刊紙「日刊ゲンダイ」にカメラマンとして入社した。

熊切 : とにかく休みがなかった。当時ですから、スパルタ教育でガンガン怒られ、走らされ、過酷な肉体労働の日々でした。 報道、プロ野球、料理、タレントの撮影とジャンルもバラバラ。学生時代にサボっていた過去を埋めるどころか、お釣りが来るぐらいシャッターを押しましたよ(笑)。 ただ、自分に足りないスキルがどんどん埋められていく感覚はありました。

「社カメ」として過ごして3年、熊切氏は独立を決意してフリーランスの道を歩む。

熊切 : 作品づくりを本格的に意識したのは2004年にJPSに入会してからです。 それまでも海外に行った際に作品を意識した撮影をしてはいたんですが、海外の街は非常にフォトジェニックで、だからこそ「撮らされている」という感じがした。 そこでいろいろと考えたら、自分が生まれ育った東京をちゃんと撮ってこなかったな、と気づいたんです。

とはいえ、東京の街はあまりに雑多で「これほど画になりにくい街はない」と思っていたんです。でも、様々な瞬間がハマった時にすごく面白い画が生まれる可能性があるな、と。単にそれらを拾い集めることができていなかったんですよね。「画にならないから撮らない」ではなく、「どう撮れば画になるのか」を考え出した時に、東京はまだまだ撮れるし、いろんなテーマが埋まっていると考えたんです。

写真展「東京動物園」(2017年)では、巨大なコンクリートという檻に囲まれた作り物の動物たちの「生態」をリアルに描写。「刹那 東京で」(2018年)では東京五輪に向けて変わり行く街並みの中で往来する姿勢の人々が織りなす「瞬間」をコミカルに時に切なく描き出した。確かに普通なら画にならない被写体でも、「ある瞬間」を重ねることで、状況が劇的に変わることを表現してみせた。

熊切 :確かに僕は「排除」をしないんですよね。自分自身の人生の転換点でも何かを決め打ちせず、あれこれ考えていったん受け入れていますよね。

ここまで来ると、写真作品も生き方もとことん「スナップ」的である。

熊切 :写真界でもコロナ禍の中、写真誌が相次いで休刊したり、写真家が活躍するフィールドが狭まったりして、それぞれが閉塞感を抱えながらバラバラに孤立したと思うんです。 それを繋ぎ直したい。その役割を担うのがJPSだと考えています。 理想は車輪のハブのような存在で、写真家、メーカー、アマチュアなど写真に関わるすべての人たちを繋ぐポイントになればいい。そこに徹していいんじゃないかなと。

写真がムーブメントや文化として活性化すれば、国や世界も注目せざるを得ない。 ずいぶんと大きい話に聞こえるかもしれませんが、もともと写真にはそれだけの力がありますし、それを語るのがJPSだと考えています。 だから、われわれは写真を通じて世界とどう連携していくのかをしっかり考えないといけない。そんな思いを今、強くしています。

文:佐々木 広人
写真:小宮 広嗣

TOP