撮影の基礎から「芸術に正解はない」まで
世界遺産「日光の社寺」と門前町を貫く日光街道。東武日光駅の辺りから日光東照宮に向かって緩やかな坂道を上ると、風情のある木造建築の建物の前で、行き交う観光客の群れが足を止めている。
土産物店や寺院ではない。フォトスタジオ久良多。そこは「街の写真館」である。
ここで3代目として活動しているのが写真家・植田朝子さんだ。
栃木県日光市で祖父が創業したのは1945年。
植田:もともとはフィルムの卸業や現像、カメラ機材の販売がメインの「街の写真屋」だったんです。父の代は、観光地という土地柄もあって「写ルンです」が爆発的に売れた時代でした。
生まれた時からカメラやフィルムに囲まれてきましたが、実は自分自身が本格的に写真を撮るようになったのは、大学に入ってから。それまでは、遠足や修学旅行にコンパクトカメラを持っていく程度の普通の学生でした。
植田さんの運命を大きく変えたのは、高校生の時に宇都宮市文化会館で観た、伝説のバンド「THE BLUE HEARTS」のライブだった。ステージから放たれる圧倒的な熱量とメッセージ。その衝撃が「表現」への渇望を呼び覚ましたという。
植田:とにかく衝撃的でした。ステージ上の彼らが音楽で私を元気づけ、勇気づけ、幸せにしてくれたように、私も何かを表現することで人を喜ばせたい。それが仕事になったらどんなにいいだろう、と強く思ったんです。
自分には何ができるだろうと考えた時、身近にあったのが写真でした。16歳の時に芽生えた「写真で自分を表現し、人を喜ばせたい」という想いだけを抱えて、東京工芸大学の門を叩くことに決めたんです。
1994年、東京工芸大学は4年制大学へと移行した。植田さんはその1期生。撮影の基礎知識すらあやふやな状態からのスタートだったが、厚木キャンパスでの日々は感性を激しく揺さぶったようだ。
植田:大学での講義は、すべてが初めての経験でした。現像一つとっても、印画紙からスッと写真が浮き上がってきた時のあのワクワク感。「自分の中から何かが生まれた」という感動は、今でも鮮明に思い出せます。
特に印象に残っているのは、芸術には「正解がない」という学びでした。抽象的なテーマを与えられ、自分で考え、自分の中の表現を形にする。そのプロセス自体が大切なんだと。写真の予備知識がなかったぶん、真っ白な状態で先生方の言葉を吸収できたのは、私にとって幸運だったのかもしれません。

