西崎さんが東京工芸大学に入学したのは2003年。映画制作を夢見て映像学科に飛び込んだ。志したきっかけは岩井俊二監督の映画「スワロウテイル」。持病の喘息が悪化して高校をしばらく休んだ際、自宅で見た映像に惹かれ、感銘を受けたという。
西崎:漠然と映画監督になりたい、映画を作りたいなと思っていた程度です。実際、入学してみたら映像にもたくさんの種類があることを知って驚きました(笑)。
当時、映像学科の1、2年次のキャンパスがあったのは神奈川県厚木市。埼玉県内にある西崎さんの自宅からは電車とバスで片道3時間もかかった。サークル活動をする余裕もなく、講義後はすぐに帰宅するか、地元でアルバイトをする毎日だったが、3年生になって東京都中野区のキャンパスに通い出すと生活は一変。映画研究室に所属して約20人の仲間と映像作品の自主制作に励んだ。
西崎:毎年、みんなで15〜20分ぐらいの短編映画を作るんです。全員で脚本を出し合って、選ばれた人が監督になり、それ以外の作業をみんなで分担する……いい仲間にも巡り会えてすごく楽しかったですね。私が担当したのは録音。現場で音を拾い、編集するんです。、効果音も作りました。4年生の時にゾンビ映画を撮影した際は、音をいろいろ試しながら「人肉を貪る音」とか(笑)。
大学以外でも大手映画会社の撮影所でインターン生として働くなど、映画制作の現場に関わり続けた。
だが、就職先として映画の道を選ばなかった。
西崎:映画はフリーランスの方々で支えられている世界なんです。映像の制作がしたくてもキャリアがない。結局、映画もテレビ番組も作る制作会社を探し、見つけたのが現在の会社(株式会社いまじん)でした。
実はその会社とは学生時代に「縁」があった。
西崎:大学時代、演出の方が大学に講演に来てくれたことがあったんです。当時「中井正広のブラックバラエティ」(日本テレビ系、通称:黒バラ)の演出をしていた方でした。私は番組の大ファンで、ディレクターが持ってきた「石のキャラクター」を見て「写真を撮っていいですか?」と聞いたら、キャラクターをもらえたんです。でも、カバンに入らなくて、はみ出したまま電車で自宅まで帰ったんですよ(笑)。
そんな縁にも導かれたのか、入社して初めて担当した番組は「黒バラ」だった。
西崎:最初の仕事はリサーチでした。遊園地などにあるパンダの乗り物にスタジオでタレントたちが乗ると言うので、どこでいくらで借りれるのかを調べ、ロケハンに行きましたね。あとはサブ出し用(番組中に使うVTR)の取材とかに付いていくとか。
「黒バラ」ではスタジオでの仕込みが多かったのですが、当日になっていろいろと変わるんです。そのたびに撮影当日に材料を求めて走り回り、スタジオの隣の料理店に「どんぐりはありますか?」と聞きに行ったこともありました(笑)。
一方で、めげそうになったことも多かったようだ。
西崎:最初の頃はなかなか帰れないし、やっぱり嫌だなと思いました。終電を逃して深夜バスに乗ると家に着くのが夜3時。帰れないときは、夜な夜な会社の近くを泣きながら徘徊したこともありました。
でも、不思議とだんだん流せるようになるんですよね。収録が終わったり、無事放送に至ったりすることで、達成感が得られるというか。いろんなものがそぎ落とされて、本当に大切なものがわかってきて、うまく流せるようになったというか。「怒られたって別にちゃんと生きてる」と思って、開き直っていけたのかもしれません。